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初めての記憶

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あなたの人生の最初の記憶はどんなものだろうか。
誰かと遊んだ記憶、親や兄弟との記憶、様々だろう。

わたしには記憶が乏しい。
昔の記憶は無意識の中に閉じ込めていた。

わたしの人生初めての記憶は今となっては悲しい記憶になっている。

今日はわたしの人生初めての記憶にある出来事を話したい。

フラッシュバックで思い出した記憶

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人生初めての記憶はフラッシュバックによって思い出された。

家から閉め出されて入れてもらえないわたし。
わたしは必死に懇願して入れてもらえるように母に泣いて謝っている。
「ごめんなさい、家の中に入れて~」
その声を無視する母は、時折「静かにしなさい」と怒鳴り声をあげる。

夕刻になっても入れてもらえず、夕飯の準備が整った時間になってようやく入れてもらえた。

昔ならよくある光景だったかもしれない。
しかし、現在だったらどうだろう?

今の価値観になぞらえて、わたしはこの記憶を虐待と認識するようになった。

泣き叫ぶ声と母の行動

わたしはそのとき、どこかの鍵が開いていないかと家中の鍵をチェックした。
段々と日が暮れ始め、寂しさが押し寄せる。

夕暮れと比例するかのようにわたしの泣き声は大きくなっていく。
家は行き交う人もない通りに面していた。

日も暮れた午後7時前になると母がようやく家の鍵を開ける。
「早く入りなさい」
出したかと思えば、今度は早く入れと促す。

後々になって気づく。
母は父が帰ってくる前にわたしを入れていたのだ。
そして何事も無かったかのように家では夕食の時間が始まっていた。

兄の場合

この話を兄にしたことがある。
すると、兄も同じようにわたしが生まれる前に、家に出されたことがあると話してくれた。

しかし、兄の行動はわたしとは違うものだった。

兄はそのまま近くの友人の家へと向かったのだ。
「寂しかったから」とその理由を言った兄は、私から見て生存能力が高いように思えた。

友人宅に向かった兄に友人宅のお母さんが我が家の母へと電話を入れる。
「うちに来てるけど」

慌てて母が迎えに行ったらしい。
その後、こっぴどく怒られたという。
あまりに理不尽な怒りだなとわたしは思った。

それ以降、兄は外に出されることはなかったという。
また友達の家に行ってしまうの母がを危惧したのだろう。

同じ経験でも結果が違う。
それは人間の個別性なのかもしれない。

今思えば虐待だった

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改めて思うと、あれは虐待の一つだったように思う。
特に今の価値観に寺足あわせると虐待と言えるだろう。

しかし、あの時代は子どもが「しつけ」という名目で外に出されることが横行していたように思う。
そんな経験をした人間が多かった時代なのかもしれない。

「児童虐待の防止等に関する法律」いわゆる児童虐待防止法が施行されたのは2000年11月だ。

その時はすでに高校生になっていた。
昭和生まれのわたしにとってはその法律は遅すぎたと感じている。

大人を信じられなかった子ども時代を過ごしたわたしにとって、初めての記憶を無意識に封印することで自分を守ってきた。

大人になって、あの頃の光景と感情がフラッシュバックとなって押し寄せてきた。
そして母親を責めようにも、今は居場所も生きているのかさえも分からず、もう責めることもできない。

過去の出来事として、今ではこの記憶も処理することが出来ているように思う。
それでも悲しい歴史として私の記憶に深く刻まれているのだった。

今回はこのへんで。
スガカオル

ではではまたね。

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スガカオル

ライターのスガカオルです。 精神障害当事者として発信をしています。 「Jonny Cafe」というオリジナルブランドのハンドメイド作家としても活動しています。 趣味はアコギの弾き語り、お笑いを観ること。

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